2012年1月アーカイブ

前回のつぶやき(1月17日)で、「なるか、水球28年ぶりのオリンピック出場」と題して、我がまち柏崎と水球との関わり、そして地元クラブチーム「ブルボンウオーターポロクラブ柏崎(略称ブルボンKZ)」から日本選手団の主将に選ばれている青柳選手を始め選抜された5名の主力選手の活躍を期待するエールを送った。

 

今年の越後の冬はことのほか厳しく、試合当日も激しい雪模様の中だったが、会場の千葉国際水泳競技場に向けて応援団のバスが仕立てたり、一方地元では青年会議所が中心となりショッピングモール内の大型テレビ画面での生中継を通じて声援を送るなど、柏崎はかなりの熱気に包まれた。

私自身も、26日(木)の対カザフスタン戦、27日の(金)の対中国戦の両試合を観戦、まさに死闘とも言える激戦を目の前にして手に汗握る熱中応援だった。

 

結果は、残念ながらカザフスタンに2点差(4対6)、中国に1点差(6対7)でいずれも惜敗。

選手はもちろんのこと、「28年ぶりの」と意気込んだ日本水泳連盟もあと一歩が届かず、勝負の世界の非情さを痛感させられた。

 

今回のオール日本チームの主将を務めた「青柳勧」さんのことについて少し触れてみたい。

 

私が彼に初めて会ったのは、ちょうど2年前の平成22年2月19日である。

前年に新潟国体が開催され、柏崎の高校生選手による新潟県水球チームが堂々4位に入賞、柏崎市民が大いに沸いたものであった。

その熱気を持続させるために、そして2年後に再び柏崎を会場にして行なわれる高校総体(インターハイ)水球競技を盛り上げるためにと、水球関係者でのミーティングの場に青柳さんが現れた。

当時彼は新潟産業大学の講師を勤めるかたわら、同大学の水球チームの監督をしており、

そんな立場からの出席であった。

 

ひとしきりの打ち合わせが終わった後、彼がやおら配布した資料のタイトルは「水球のまち柏崎推進プロジェクト」なる稀有壮大な代物だった。

 

要するに、柏崎は水球にまつわる長い歴史があり、現在では小学生から大学生まで裾野の広い選手育成がなされている。

この街を舞台にして水球による街おこしをやろうではないか。

例えば、青森のカーリング、能代のバスケットのように・・・。

そのために、自分も全国から水球のトップレベルの選手を集め、全日本選手権を争えるクラブチームを創る。

そして、2016年(平成28年)のリオデジャネイロ(ブラジル)でのオリンピックには

柏崎から是非出場したい・・・・。

 

小生をはじめ会議に列席のメンバーや父母会の皆さんは、いきなりの「大きな話」にビックリはしたものの、何か胸はずむ、夢を見る心地になったことを記憶している。

 

因みに、青柳さんは京都の生まれ、水球の名門校である京都府立鳥羽高校から筑波大を経てスペイン、イタリア、モンテネグロなど欧州各国で活躍するも、何とか日本でも社会人チームを育てようとの思いから帰国。

縁あって、新潟産業大学に籍を置きながらの構想であった。

 

その出会いから僅か2年。

ロンドンオリンピックへ出場の夢は費えたものの、柏崎の地にクラブチームを創り、その選手を核にしながらオリンピックを目指すという約束は着実に芽を出していると言える。

 

「途方もない夢」は、常識からは生まれない。

それを成し遂げる原動力は、「よそ者、若者、バカ者」にして初めて可能である。

まさに、その例えを地で行ってると言わざるを得ない。

 

ロンドンは逃がしたが、元々の照準は次のリオにあったはず。

全試合終了後に青柳主将が客席に向かい、こう宣言した。

「必ず4年後に、みんなでブラジルに行きます。もう少しの間、時間を貸してください・・・」と。

 

青柳さんを始めブルボンの選手の皆さんとともに、これからも4年間さらに夢を追いかけることの出来る柏崎市民の幸せをつくづくと思う。

夢が現実になるように、市民も選手に出来るだけ寄り添いながら精一杯の支援の手を差し伸べる必要がある。

 

 

    


 

 

先週から、厳しい寒波と降雪に悩まされています。

そうした苦労の中でも、ブルボンの選手を中心にしたオリンピックを目指しての活躍は、

柏崎市民の心に明るい灯火を付けてくれました。

是非4年後を目指して、次の一歩を踏み出してもらいたいです。

 

次回のつぶやきは、2月の中旬に「フクシマを考える(仮)」を予定しています。

 

 

社長 西川 正純  

 

柏崎駅に降り立つと、「ようこそ 水球のまち柏崎」という横看板が皆さんをお迎えしているのをご存知だろうか?

「えっ? 柏崎と水球ってどんな関係?」といぶかる方も多かろうと思う。

 

話は50年近くも前に遡るが、かいつまんで振り返ると・・・。

 

昭和30年代の後半、待望久しかった新潟国体が昭和39年に開催できることとなり、これを受け当時の柏崎の水泳関係者が「柏崎に長水路のプールの建設、そして水球競技の誘致」を目指して猛運動を展開した。

おかげで、昭和37年10月には水球可能の国体プールが海岸近くに着工され、施行業者の植木組・植木豊太社長は「皇太子殿下のおいでになるプールの万全の工事を」と陣頭指揮に立ったと聞く。

 

一方、水球選手(競技は高校生で行なわれる)の養成には筆舌に尽くし難い労苦が伴った。

 

当時水泳部が休眠状態だった柏崎高校にどうにか水泳部が復活させたのが同じく昭和37年の4月。もちろん全員が水球ボールを手にしたことがないどころか、水泳競技そのものにもズブの素人が大半と言う有様だった。

縁あって東京教育大の全面的なバックアップを得たとは言うものの、急ごしらえのチームには惨敗の日々が待っていた。

その年8月に山口県下松市で行なわれたインターハイが公式戦のデビューだったが、当時高校最強チームと言われた岡山関西高校には0-24と完膚なきまでの大敗を喫した。

 

しかし、一念というのは恐ろしいもので、柏崎高校の実力は急速な成長を遂げ、翌38年の山口国体では4位に入賞。

さらに翌39年のオールジャパン水球大会では、1回戦慶応大学現役チームに2-1で競り勝ち、2回戦法政大に0-6で敗れたものの、中央各紙は「地方無名高校チーム」の活躍を筆を揃えて褒めたたえたものである。

チーム結成以来、幾度かの危機、数え切れない敗戦と屈辱を乗り越えながら、新潟国体での念願の全国制覇も目前に迫っていた。

 

しかし「想定外」とはこのことではないか。

昭和39年6月16日正午過ぎ、新潟地震発生、震度7!

新潟県は、災害復旧を最優先させるため、予定されていた夏季国体を返上するという苦渋の決断をせざるをえなかった。

 

「このままでは引き下がれない・・」。

国体に代わるものとして、当時の高校水球強豪チーム5ヶ校を招致し急遽行なわれた選抜大会で、柏崎高校は見事優勝。

さらに、8月のインターハイ前橋大会でも、決勝戦では宿敵関西高校を2-1の激戦の末に倒し、名実共に日本一の座を勝ち取った。

 

その後も幾多の浮沈を繰り返しながら、平成21年の新潟国体では4位に食い込むなど、

柏崎に於ける水球のDNAはしっかり生きていることを市内外に示しつつある。

 

お話変わって、今年のロンドンオリンピック。

日本の水球チームが28年ぶりの出場をかけてのアジア選手権が、千葉国際水泳プールで来週行なわれるが、選手達は1ヶ月に及ぶオーストラリアでの強化合宿を終えて昨日無事に帰国、満を持しての決戦を控える。

 

日本代表候補の15選手のうち、何と6人は地元柏崎のクラブチーム「ブルボンKZ」に所属している。

日の丸を背負って戦う日本チームは、半ば柏崎のチームとも言えるわけで、市民の寄せる期待も大きなものがある。

 

ブルボンKZで監督兼プレーヤーの青柳選手。

ヨーロッパのプロリーグで活躍した経歴を持ち、小学生から大学生まで水球チームのある我が柏崎のシステムに惚れ込み、「水球で町おこし」の夢を描いてほぼ独力でここまで引っ張ってきた企画力と突破力には敬服する。

 

26日(木)の対カザフスタン戦、翌27日(金)の対中国戦、ここが最大の山場となる。28年ぶりに水球のオリンピック出場がなるか、皆さんも注目しながら応援をお願いします。

 

    


 

新潟の1月は、おかげで(?)雪の豊作となりました。

でも、水球チームの活躍と共に、春の息吹が聞こえて来るのも遠くないでしょう。

 

今年も、拙い「つぶやき」を続けますが、よろしくお願いいたします。

次号(8)は、今月下旬に水球の結果か、もしくは他のテーマで予定します。 

 

社長 西川正純  

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