2011年12月アーカイブ

12月12日、今や暮れの風物詩のひとつにもなったが、京都の清水寺で発表された今年を表す漢字として「絆」が選ばれた。

言うまでもなく震災後の人と人とのつながりのありがたさを、日本国民がこぞって感じさせられた末の選択であった。

 

9ヶ月前の3月11日に発生したあの未曾有の大地震。

巨大な津波により青森県から千葉県に至るまで太平洋沿岸は飲み込まれ、あまつさえ

福島第1原発の事故により今なお多くの被災者がやるせない正月を迎えようとしている。

こうした辛い現実を、一年前の年の瀬に誰が想像し得たであろうか。

 

想像を超えた出来事と言えば、日本の外でも多くのことが起こった。

 

チュニジアの民衆蜂起をきっかけに中東地域全体に拡がった、いわゆる「アラブの春」。

民主化の嵐は燎原のごとく燃え広がり、チュニジアからエジプト、そして難攻不落と思えたリビアのカダフィ政権までもが崩壊。

 

しかし足元の動揺は中東だけではない。

現在ロシアでは多くの民衆が「静かな抗議」を始めている。

ロシア下院選挙の不正疑惑に抗議して、モスクワでの去る24日の抗議集会には10万人に近い参加者が、シンボルカラーの白い花や風船を手にして集まったという(内務省は3万人と発表)。

来年3月に3選を目指して大統領選に出馬するプーチンも、さすがに心中穏やかではないだろう。

 

ほかにも、紳士の国イギリスでも若者による暴動の火種がくすぶり、アメリカのニューヨークでは富の象徴でもあるウオール街が反格差を唱える集団によって占拠されるなど、これまでには見られなかった様々な激流の兆しが見て取れる。

経済的に袋小路に追い詰められたと感じる若者が、そのはけ口を求めての行動であろう。

 

もう一度、「震災後の日本」に戻って・・・・。

 

大震災によって打ちのめされた日本ではあるが、同時にまた極限に臨んでの日本人の特性を世界に知らしめる機会にもなった。

 

最愛の家族を失い、寒さに震え、食料不足に悩まされる、そのギリギリの境遇に在っても、声高の文句も言わず、ひたすら耐えて、助け合う。

一方で、被災者や原発事故の収拾にあたった人たちの自己犠牲に満ちた活動。

そうした日本人の礼節や誠実さに、世界中からの称賛が寄せられた。

 

「絆」が、我々の心の中に生き続ける限り、日本はまだまだ見捨てたものではない。

復興への道のりは、とてつもなく長い単位で計らなければならないが、出口には必ず辿りつけるとの希望をもって、まもなく来る新しい年を迎えたい。

 

    


 

 

10月から始めた、この「つぶやき」、よちよち歩きながらようやく年末までこぎつけました。

拙い書き物ですが、お読みくださった方々に心から感謝を申し上げます。

何とか、来年も月2回のペースで続けていくつもりですので、よろしくお願いいたします。

 

次回新年のつぶやきは、1月中旬頃に「なるか、28年ぶりの水球オリンピック出場」というテーマです。

 

最後になりましたが、社業である柏陽鋼機のお得意さまや、すべての関係者の方々に、この場をお借りして一年のご愛顧に厚くお礼を申し上げます。

社長がこのような駄文を書けるのも、皆様の日頃のご支援があればこそと痛感しております。

来年も、皆様に少しでも貢献できる企業であるように、社員ともども気持ち新たに「まっさらな」ところから始めていきますので、変わらざるご支援をお願いいたします。

 

一年間お世話になりました、どうぞ、よき新年をお迎えください! 

 

社長 西川 正純 

 

先日、当社の社内旅行で九州は福岡まで足を伸ばしてきた。

9月23日付の「社長のつぶやき」で触れた新興航空会社FDAの新潟-福岡便に多少でも協力したい気持ちからの発案だったが、会社の旅行としては何と12年ぶり!

折からの金曜日の夜のこととて、博多中洲の夜は眩しく輝いていた。

 

それはともかくとして、太宰府や国立博物館を見学しながら感じたことのアラカルトを以下にいくつか。

 

この地は、都市としては2000年以上の歴史を有し、古くは「奴(な)の国」や「那の津」と呼ばれており、「博多」という地名も八世紀の奈良時代には登場していたという。

博多湾という天然の良港をかかえ、玄界灘を挟んで中国大陸や朝鮮半島と向かい合い、古くから大陸との門戸として栄える特異な地理的条件にあった。

 

アジアからヨーロッパにまたがる巨大な帝国を築いた元の皇帝フビライは、朝鮮半島の高麗を制圧した後、日本にも膝を屈して朝貢するようたびたび要求を続けた。

これを拒否し続ける日本に対し、1274年の「文永の役」では3万の軍勢、1281年の「弘安の役」では実に14万の大軍をもって博多湾に攻め込んだ。 

名乗りを挙げての一騎打ちの戦法しか知らない日本軍がコテンパンにやられたのは当然だが、折からの暴風雨によって元の船団が壊滅状態となり、日本は九死に一生を得た。

この「神風」なかりせば、その後の日本の歴史、日本人のDNAは大きく変わっていたわけで、歴史に「if (イフ)」はないものの、空想の興味は尽きない。

 

成田からソウル、上海、台北までの所要時間は、それぞれ2時間半、3時間、3時間半だが、福岡からの時間距離は1時間20分、1時間半、2時間強に過ぎない。

また、お隣の下関と韓国釜山との間には「はまゆう」「星希」の日韓2隻のフェリーが

毎日往復をしている。

同じ日本でも、所が変われば対岸の景色が違うのである。

 

時折り見かけるが、世界地図を左に45度傾けると、日本が北に位置し、太平洋を真上に抱える形になる。

日本海は、日本と中国大陸とに挟まれた湖のような景観を呈し、また見方によっては、

日本列島の弓形の地が中国や韓国、そしてロシアの太平洋進出を阻む防波堤のような地形にも映って見える。

 

ではその逆に、右に45度傾けるとどうなるか。

日本列島は、ユーラシア大陸の下に、小さな口を開けたように鎮座する。

「世界地図の読み方」(講談社新書)の中で著者の高野孟によれば、大要次のような表現になる。

 

  • ・・ 日本は、ユーラシア大陸という巨大なパチンコ台の【受け皿】のような位置に

あることが分かる。遠くローマからペルシャ、敦煌を経て長安に至り、そこから朝鮮半島伝いに日本列島のパチンコ台に。あるいは北のシベリアからバイカル湖周辺のツングース文化圏を経てアイヌの生活圏から日本へ。さらに別のルートとして、インドからミヤンマー、雲南を経て謎の西南シルクロードが日本列島の受け皿に流れ込んでくる・・・

 

いわば、東半球のさまざまな人々の数千年の営みが、その下の太平洋の底に落とし込まれてしまうのを掬い取るかのようなパチンコ台としての日本列島。

考えようによれば、外のモノを何でも受け入れて、それなりに仕立ててしまう日本という国の「雑居性」「多様性」も、こうした地政学的な位置づけに拠るところがあるのかも知れない。

 

思えば、基地問題に苦しめられている沖縄の人々の気持ちも、本当のところは沖縄の地でなければ理解出来ないのではないか。

遠くは琉球と呼ばれた平和な時代に、日本の薩摩藩、中国大陸そして台湾と、周囲にいくつもの異国を抱えていた、その特異な地政学上からもたらされる「呻吟(しんぎん)」に我々の気持ちはどれだけ寄り添えるものか、深く考えさせられる九州への小旅行だった。

 

 

     


 

 

つぶやきの「5号」です。

ちょっと旅に出ると、同じの日本の中からでも違う景色が見えるということがよく分かりました。

 

「3号」と「4号」で北朝鮮のことを書きましたが、昨日の金正日総書記の急死にはビックリしました。

しばらく様子を見た上で、「このやっかいな隣人 北朝鮮(3)」を書きたいと思います。

 

次号は、年末に「行く年、来る年」と題して載せようと意気込んでおります。

 

社長 西川 正純

 

 

 

  

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